後鳥羽天皇皇子ゆかりの児島
日本第一熊野十二権現の歴史
五流修験発祥の地
熊野十二社権現本宮
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熊野十二社権現<概要>熊野十二社権現<歴史概略>熊野十二社権現<用語解説>熊野十二社権現<年表>



歴史
697年、役小角(修験道開祖)が朝廷から謀反の疑いをかけられ、伊豆大島に配流された際、
難を逃れる為、 小角の門弟たちは紀州熊野本宮の御神体を捧持し、聖地を求め、船で紀州を
後にしました。

謀反の疑いが晴れ、役小角が赦免された701年、門弟たちは備前児島半島柘榴浜(ざくろがはま、
現:児島下の町・琴浦)に上陸。
3月 3日、福岡村(現在地)に熊野十二社権現の御神体を安置、紀州熊野本宮を遷座しました。 
=創建(現、5月18・19日:春季大祭)

修験道の本拠を児島に置き、義学・義玄・義真・寿玄・芳玄の五大門弟(五流修験の始祖)は
役小角の験道を継承伝授、行法秘事等を正授しました。
児島から任命された他の門弟たちが紀州熊野本宮へ戻り、参拝入峯者を監督統理する諸役に
就きました。

五流(五院:尊瀧院・伝法院・太法院・報恩院・建徳院)を管長とする公卿十院を合せた五流長床
は皇室に尊崇され、天皇・皇族の熊野行幸(詣で)の先達(案内)を勤めました。
また修験道において一般民衆との関わりもあった修験者(山伏)の役割は重要でした。

740年に聖武天皇より、児島一円(児島郡全土)を熊野神社の神領として寄進されました。
孝謙天皇(749-758年在位)より、紀州熊野権現に対して日本第一大霊験根本の称を奉られ、
児島の本宮もその号を称しました。

761年に紀州熊野本宮に模した社殿(十二社権現宮)、伽藍を造営。
児島郡木見村(倉敷市木見)に諸興寺、山村(倉敷市由加)に那智堂(現:由加神社、蓮台寺)を
建立。本宮(倉敷市林)と合わせて新熊野三山と称しました。

熊野詣が盛んになるにつれ、奉幣所(天皇の命による幣帛(捧げ物)を奉献する寺社)、九十九王子
権現を建て、付近の50余ヶ院を出仕寺院(山伏、僧を遣わす寺院)としました。

1205年に土御門天皇(後鳥羽天皇の第一皇子)より児島一円を神領として再度寄進されました。
紀州熊野から荘務執行仕置等の諸役が多数が派遣され、神領としての政を行い、紀州との交流も
盛んに行われました。
新熊野三山周辺に王子権現等の熊野社が多数建立され、児島一円に多数の分社・関係社が建立
されました。

1220年に後鳥羽上皇の鎌倉幕府倒幕・拳兵に反対し、乱を避けて児島に下られた第三皇子桜井宮
覚仁親王が尊瀧院を庵室とされ、熊野三山検校宮(熊野三山統轄・白河院の熊野詣に際しての先達)
として五流山伏を取立てられました。

1221年、倒幕(承久の変)に敗れた後鳥羽上皇が隠岐へ配流され、第四皇子冷泉宮頼仁親王が
児島に配流されました。
冷泉宮頼仁親王も桜井宮覚仁親王と同じく尊瀧院を庵室とされ、衰退していた熊野神社と寺院を
再興されました。

承久の変に勝した幕府に政治の実権が移り、全国の各神社とも神領や寺領が幕府により次々に
削減されました。
熊野神社と修験道の寺院が一体となった神仏習合の形態を取る宗教施設として栄えた新熊野三山
も、南北朝時代の争乱以降、神領や寺領を次第に削減され、栄華を衰退させました。

1247年に冷泉宮頼仁親王が薨去され、長男道乗が五流一山を再興。
五院各々(尊瀧院・伝法院・太法院・報恩院・建徳院)を子息に継がせました。
五院(五流)は役行者の立行相伝の家として、各々行法軌則の異なる修法を伝えて一派を立て、
修験道の貫頂(管主)に座しました。

1469年、覚王院円海の謀反により、一山の伽藍僧坊が焼き払われ、ほぼ全焼しました。
1492年に非座衆(社僧)の官主である大願寺住職天誉の発願で、焼き払われた建造物の再建が
開始されました。

大内義興(戦国大名)・毛利家(戦国武将)の守護を受けましたが、児島一円に有した神領も3ヶ村
に減り、1582年の備中高松城水攻めに加勢しなかった為、羽柴秀吉の弾圧を受けて神領を失い
ました。

江戸幕府による修験道法度(1613年)により修験道が当山派(真言宗系)と本山派(天台宗系)に
分類され、本山派修験として聖護院に属しました。

1647年、神道を中心とする政策・神仏分離を行った池田光政が十二社権現の由緒を尊び、備前藩
特別崇敬社としました。
現在の社殿を造営し、神社としての祭祀を明確にする為、吉備津彦神社の大守家・大守大藤内の
弟に移住(祠官)を命じ、神前祭祀に専従させました。
一方、廃仏毀釈により多くの寺院が廃絶・還俗させられました。

明治政府による神仏分離令(1868年)により、十二社権現は熊野神社となり、寺院(尊瀧院)は
天台宗寺院となりました。

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用語解説
紀州熊野本宮(熊野本宮大社)
和歌山県田辺市本宮町にある神社(熊野坐神社)。
創建:崇神天皇代、紀元前33年頃(不詳)
熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の一つ。
全国熊野神社の総本社。
創建以来1889年(明治22年)の大洪水で流されるまで、熊野川の中州にありました。

主祭神
家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)
熊野加武呂乃命(くまぬかむろのみこと)
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家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)
別名:熊野坐大神(くまぬにますおおかみ)
御神徳:「智」「仁」「勇」三徳
日本神話に登場する須佐之男命(日本書紀:素戔男尊、素戔嗚尊)
唐の天台山から飛来したとされます。

役小角(えんのおづの、えんのおづぬ)
634年に大和国葛木上郡茅原(現、奈良県御所市茅原)に生まれました。
生誕の地とされる所には、吉祥草寺が建立されています。

17才の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学びました。その後、葛城山(金剛山)で山岳修行を行い、
熊野や大峰の山々で修行を重ねました。
金峯山(吉野)で金剛蔵王大権現を受け取り、修験道の基礎を築き、修験道の開祖とされています。
二十代の頃、藤原鎌足の病気を治癒したという伝説がある等、呪術に優れ、神仏調和を唱えました。

699年に謀反の疑いをかけられ伊豆大島へ流刑となり、701年に疑いが晴れて茅原に帰りました。
706年6月7日に68歳で箕面の天井ヶ岳にて入寂(逝去)したと言われています。
平安時代、山岳信仰の隆盛とともに「役行者(えんのぎょうじゃ)」と呼ばれるようになり、1799年
(役行者御遠忌)に、光格天皇より「神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」の諡を贈られました。
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五流長床衆
五流(五院:尊瀧院・伝法院・太法院・報恩院・建徳院)を管長とした公卿十院(吉祥院・智蓮光院・
覚城院・南滝坊・常住院・本城院・青雲院・宝蔵院・大弐院・千手院・正寿院・大善院)を合せて五流
長床衆と呼びました。
(近世に塩飽本島の吉祥院が加わり、五流六院、公卿十二院になりました)
 
社僧(寺院)が、大願寺を官主とし、神宮寺・是如院・密蔵坊・多宝坊・大覚坊・極楽寺・善誓院・
西光坊(西方寺)・中之坊・清楽寺・阿弥陀寺・為連坊・慶弁(琳)坊・岡本坊・室生坊・宝光坊・
法華坊・観音寺・因幡坊・奥之院・南之坊・西蔵坊・西条坊・延長坊・玉泉寺・仁平寺・実相坊・
惣持坊・杉本坊・普賢坊・有南坊・真如院・金蔵坊・新之坊の25ヶ寺ありました。
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修験道とは
森羅万象に命や神霊が宿るとする古神道の一つである神奈備(かむなび)や磐座(いわくら)という
山岳信仰と仏教が習合し、さらに道教、陰陽道などの要素も加わり確立した日本独特の宗教です。

深山幽谷に分け入り厳しい修行で超自然的な能力「験力」を得て、衆生の救済を目指す実践的な
宗教でもあります。
修行者のことを「修行して迷妄を払い験徳を得る」ことから「修験者」、また山に伏して修行する姿から
「山伏」と呼ばれています。
奈良時代に成立したとされ、開祖、役小角(役行者)が終生を在家のまま通したという伝承から在家
主義を貫いています。

1613年の江戸幕府による修験道法度により、真言宗系(当山派)と、天台宗系(本山派)に分類され、1868年(明治元年)の神仏分離令、1872年の修験禁止令により修験道は禁止されました。
また、廃仏毀釈により関係する寺院が廃絶・還俗させられ、明治以降は仏教色を薄めて教派神道と
なった宗派もあります。(御嶽教、扶桑教、実行教、丸山教など)
不動尊の真言や般若心経の読誦など神仏習合時代の名残も見られます。

当山派は醍醐寺三宝院を開いた聖宝理源大師に端を発し、本山派は園城寺の増誉が聖護院を建立
して熊野三所権現を祭り、一派として形成されていきました。

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山岳信仰とは
山を神聖視し、崇拝の対象とする信仰です。
狩猟民族などの山岳と関係の深い民族が、山岳地とそれに付帯する自然環境に対して抱く畏敬の
念、雄大さや厳しい自然環境に圧倒され恐れ敬う感情などから発展しました。

山から流れる川や、山裾に広がる森林地帯に衣食住の全てに渡って依存した生活を送り、常に目
に入る山からの恩恵に浴している内陸地山間部の文化に多く見られます。

その一方で、険しい地形や自然環境により僅かな不注意でも命を奪われかねない環境にあること
から、危険な状況に陥る行為を「山の機嫌を損ねる」行為として信仰上の禁忌とし、自らの安全を
図るための知識として語り継ぎ、教え継いでいます。

古神道(神道の源流である日本古来の信仰)においても、水源・狩猟・採取の場・鉱山・森林など
から得られる生命の恵み、雄大な容姿や火山などのに対する畏怖・畏敬の念から、森林・巨岩・滝
などは神が宿る(鎮座する)、降臨する場所(磐座:いわくら)とし、火山や森林を抱く山は、磐座を
無数に擁する領域(神奈備:かんなび)と信じられ、常世(とこよ:神の国や神域)と現世(うつしよ)の
端境(境界)として、祭祀が行われてきました。

農村部では水源であることと関連し、春になると山の神が里に降りて田の神となり、秋の収穫を終え
ると山に帰るという信仰もあります。
これらの伝統は神社神道にも残り、長野県諏訪大社や奈良県三輪山(大神神社)のように、山自体
を信仰しています。

岡山では、太古より神奈備山として崇めていた「吉備の中山」を仰ぐ東西(備前・備中)の麓に鎮座し、
吉備国の安泰・発展を祈祷した吉備津彦神社(備前一宮)と、吉備津神社(備中一宮)をはじめ、津山
市の神楽尾山・神奈備山など各地に信仰の山岳・神社・祠があります。
(一宮:国で一番有力・格式高い神社)

また仏教でも、世界の中心には須弥山(しゅみせん)という高い山がそびえていると考えられ、空海が
高野山を、最澄が比叡山を開くなど、山への畏敬の念は、より一層深まっていきました。
その為、平地にあっても「○○山※※寺」と号しています。

チベット仏教をはじめとする諸外国の山岳信仰は、信仰を捧げる山に登るのことを禁忌とする場合が
多いですが、日本では登山・登頂が重要視されます。

それは日本人の場合、山自体を崇拝の対象とする山岳信仰に、巨石・巨木に神や御霊が宿る、降臨
すると畏敬した自然崇拝や、太陽を森羅万象の生命・恩恵の源と崇拝した太陽信仰(早朝にご来光を
拝む等)が結びついている為と思われます。

自然崇拝信仰から発展してきた日本の山岳信仰は、江戸末期まで神仏習合の形態を取ってきました
が、明治以後の神仏分離令により神仏習合が禁止されて以後、寺院と神社が分けられ、信仰の多く
は神社の形態を取って存続しました。

神領とは
明治維新による改革以前、神社運営の経済的基盤等の為に朝廷が与えた領地(社領)。
神社がその土地・地域を管理して収入を得、その地域の行政権、司法権をもつこともありました。
南北朝時代の争乱以降、全国各社神領とも次第に略奪され、戦国時代には殆ど崩壊しました。

神地(かんどこ)、神田(じんでん)、神戸(かんべ)、神郡(しんぐん)、御厨(みくりや)、御園(みその)、
朱印地、黒印地(こくいんち)など。
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南北朝時代とは
1336年(足利尊氏による光明天皇の践祚、後醍醐天皇の吉野転居)から1392年(両王朝合一)まで
の時代。

大和国吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国住吉(大阪府大阪市
住吉区)を本拠とした後醍醐天皇を奉じる大覚寺統の南朝(吉野朝廷)と、足利氏を頂点に全国多数
の武士が支持した持明院統の光明天皇を擁した北朝(京都)に分かれて対立した時代のことです。
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熊野十二社権現<概要>熊野十二社権現<歴史概略>熊野十二社権現<用語解説>熊野十二社権現<年表>



本ページの内容は、下記サイトを参照させて頂き、いにしえの児島、信仰風景に想いを
はせながら、ごく個人的に記載・作成したものです。
専門的な考証を主張するものではなく、また思想・信仰を推進するものではありません。

<参照>
下記サイトを参照させて頂きました。
(ページ名・URL(リンク)は参照時のものです。)
岡山県神社庁[熊野神社]
岡山県倉敷市 日本第一熊野神社(公式ページ)
熊野本宮大社熊野三山(公式ページ)
吉備津彦神社(公式ページ)
五流修験
五流尊滝院
岡山県立記録資料館:岡山県の年表
Wikipedia [熊野神社 (倉敷市)][熊野本宮大社]
Wikipedia [役小角][修験道][山岳信仰]
Wikipedia [南北朝時代] ・ [日本史時代区分表]
Wikipediaは、関連記事・解説のリンク記事を含みます。

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