| こちらのとおり、自他ともに認める(友知人は全て知っている)渡哲也ファンですが、 |
| 渡哲也氏のファンになる数年前(中学2年)から昌子さんのファンです。 |
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| 秘密 (^b^) にしていた歳がバレますが、中学2年の頃・・・ |
| ブローヘアスタイルの昌子さんにキュンとした心へ、1975年(昭和50年)6月 1日発売 |
| 「面影の君」を歌われていた昌子さんの歌声が沁みわたり、ファンになりました。 |
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| 中学校の帰り、貸しレコード・テープ屋さんに寄っては、アルバム・リサイタルの |
| テープを借りまくり、生テープにダビングして擦り切れるほど聞き、遅ればせながら、 |
| 1972年(昭和47年)の「せんせい」まで遡ってファンになりました。 |
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| アルバイト(郵便配達)を始めた高校1年から、給与(食費折半分の残り)を貯め、 |
| レコード屋さんでアルバム・リサイタルのテープを買い、生テープにダビングして |
| 擦り切れるほど聞いていました。 |
| ファンクラブ(当時、ホリプロダクション)入会。 |
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| 1977年(昭和52年) 1月 25日発売「小雨の下宿屋」から一気に"昌子さん熱"が |
| 上がり、以降、渡哲也氏で寡黙な男らしさを習い、演じ??、昌子さんで心を癒し、 |
| 心を元気にしていました。 |
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| ダビングして擦り切れるほど聞いた数々のリサイタルの中でも、一番のお気に入りは、 |
| 1977年(昭和52年) 8月 27〜28日 新歌舞伎座特別公演ライブ「涙の熱唱」でした。 |
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司会の玉置宏氏との「何かに似てると思ったら・・・」「エースコック?」などの |
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掛け合いも面白く、玉置氏が「あんた、ほんとに18かい?」と驚き尋ねた |
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「城ヶ島の雨」「船頭小唄」等々の大正ロマンを、情感いっぱいに心で歌って |
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いる昌子さんの歌声に心がビリビリと痺れ、感銘しました。 |
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テレビでも、大正ロマン、あの人の船行っちゃった、なみだの桟橋など、 |
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体じゅうで、魂で歌っているような昌子さんの情感いっぱいの歌・姿にビリビリ |
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と痺れました。 |
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| 1978年(昭和53年)7月 22日 |
| デビュー7周年記念作映画「お嫁にゆきます」公開! |
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今思えば山口百恵さん・三浦友和さんに申し訳なかったですが、同時放映の |
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「ふりむけば愛」の終わり頃 =「お嫁にゆきます」の始まりから最終放映まで |
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1日じゅう×3日、映画館に入り浸っていました。 |
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| 1978年(昭和53年)? 12月 17日 |
| デビュー7周年記念 MM7リサイタル(岡山市民会館) |
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アルバイトと言えど働き始めたら休むな!等々、非常に (異常に??) 厳しかった |
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親に県外でのリサイタルへ行くことを許されず、ホリプロダクション (現、ホリプロ ) |
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ファンクラブ会報誌で岡山での開催を知り、迷わず速攻、アルバイト(郵便配達)の |
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給与でチケットを買い求め、ファンクラブで知り合った方々と行きました。 |
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フラッシュは使いません、とカメラ2台(モノクロ用とカラー用)を持ち込ませて頂き、 |
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12時開演(1階4列目)・15時開演(1階1列目) いずれも中央辺りの指定席で、 |
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昌子さんを撮影させて頂きました。 |
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昌子さんを間近に、夢のような1日でした。 |
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| 1980年(昭和55年)高卒後、陸上自衛隊へ入隊。 |
| 旧ファンクラブのバッチをお守りに財布へ付けていました。 |
| 外見は渡哲也氏(大都会の黒岩・西部警察の大門)になりきって。f*>O<* |
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| デビュー15周年、一時引退された1986年(昭和61年) |
| 前年の1985年(昭和60年)7月1日〜1986年(昭和61年)6月31日 現職の出張で |
| 東京で勤務していましたが、土日祝無関係・盆正月フル稼働、夜勤続きは職場 |
| (港区)で仮眠し、片道2時間の寮(稲城市)へは週に1〜2日帰るくらいの生活。 |
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今では労使協定的にも体的にも考えられない勤務・生活でしたが、先輩・同僚と |
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わきあいあい、わいわいと勤務・生活し、岡山弁をひろめてきました。\(^O^)/ |
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今も年賀状のやりとりをさせて頂いていますが、電話をかけたとき、電話がかか |
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って来た時に「久しぶりじゃ―な―」と言って頂いて嬉しいです。 |
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夜勤明けには乗降駅の品川、乗り継ぎ駅の新宿・渋谷などを歩きまわり、1〜2 |
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ヵ月に1度の公休には、井の頭公園、神代植物公園、高尾山、青梅、三浦半島・ |
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城ヶ島などへ写真を撮りに出かけていました。 |
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| NHK紅白歌合戦史上初の紅組司会・トリを務められ、感涙に溢れながら「愛傷歌」 |
| を歌われたあの感動的な1985年(昭和60年)12月31日も、紅白の生放送を観られ |
| ませんでした。(;O;) が、職場の休憩室で、もらい涙でグッシャグシャにした顔を |
| 先輩・同僚に見られなくてよかったです。 |
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| 1986年(昭和61年)6月29日 NHKホールでの「デビュー15周年記念リサイタル」には |
| 惜しくも行けず、6月31日に東京を後にし、岡山へ戻りました。 |
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| 1986年(昭和61年)7月 1日より、帰岡後に配置された新しい職場で四苦八苦、 |
| てんやわんや。 |
| 1986年(昭和61年)8月 24日 歌舞伎座での引退コンサート「森昌子ファイナル」の |
| ビデオを生テープへダビングし、人知れず(家族の留守に)涙で顔をグッシャグシャ |
| にしながら観ました。 |
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| 1986年(昭和61年) 8月 31日 芸能界を引退され、10月 1日 森進一氏とご結婚され |
| て以後、こちらでご紹介したグッズの他、ブロマイド・高校の帰り道に薬屋さんで拝み |
| 倒してもらったベンザのポスター、映画パンフレット等々を入れた「昌子さんBOX」を |
| 長らく、"封印"していました。 |
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その間、私は1992年(平成 4年) 大腸ポリープ(あずき大3個摘出)・胃潰瘍等、 |
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内臓系の病気を一度に患い、6ヶ月の自宅療養後は趣味の写真撮影を中止し、 |
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新しく配置された現在の職場で仕事に邁進。 |
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高卒後の陸上自衛隊入隊から現職での東京出張、コーポ暮らし等で岡山県内外・ |
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岡山市内を転々としましたが、息子と帰住して1年後、賃貸を止めると言う家主さん |
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から、息子と帰住する3年前に立て替えて頂いた借家を買い取り、定住。 |
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仕事も落ち着き、コンパクトデジタルカメラを購入して写真撮影を再開した1998年 |
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(平成10年) 永遠の友??となった頚椎椎間板ヘルニア・頚椎性神経根症を発症。 |
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左肩から左腕・指先まで神経が剥き出しになったような (麻酔をせず歯の神経を |
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グリグリ抜かれているような)痛み。首をわずかでも動かしたら更に増す痛み。 |
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「首から下の全神経が集中・密接している部位で手術で大小の障害が100%出る |
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為、手術は最終手段」と1ヶ月入院、1ヶ月自宅で安静療養。 |
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入院中の或る週末に痛みが最高潮に達し、当時の執刀予定だった国立病院へ |
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「週明けに転院」と搬送手続きをして頂いた後の土日に、何事もなかったように |
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痛みが治まり、転院・手術取り止めになり、安静治療を継続。 |
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以後、再発・入退院を繰り返し、かつてはフィルムカメラを引っ提げて岡山県内を |
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縦横無尽に走りまわっていた写真撮影を断念。 |
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自衛隊での、有事に戦場へ持参・送付する物、家族へ送付する物を分けて箱詰め |
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しておく習慣で、ボール箱が増えながら部屋の整理もままならず、昌子さんBOXは |
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クローゼットの奥へ奥へと行ってしまいました。 |
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2回目(発症時の入院先と違う某基幹病院)の退院後、医師から「今、復帰すれば、 |
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脊髄の手前で止まっている椎間板がもって10年」と、自宅で約半年の安静療養を |
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勧められましたが、当時は医者知らずだった親に「医者の言うことを真に受けるなっ、 |
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家の払い(買取後、全額負担(借家時は高卒後より折半))、生活費はどうするっ」 |
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等々と厳しく叱咤・激励??され、会社が 「完治に近い状態になるまで休め」 と、有り |
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難く決めてくれていた休職を 「症状が治まりました」 と返上し、復帰。 |
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それまで支えてくれた同僚・後輩・会社と、入院中・退院後に、お見舞い、有り難い |
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お言葉を頂いたご契約先へ恩返しする一心で仕事に邁進しました。 |
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医師から「最悪、首から下が全麻痺」、「首に強い衝撃を受けた場合は心停止」と |
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告げられ、何か残しておきたい!と、ネットアルバム[風光 岡山](Photo Highway) |
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を作成。それまでに撮影した花々の写真、岡山県内の風景写真を[かつての趣味] |
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としてご紹介しました。 |
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| 2001年(平成13年)12月 31日 16年ぶりに出場されたNHK紅白歌合戦。 |
| 森昌子メモリアルスペシャル (せんせい〜哀しみ本線日本海〜越冬つばめ)は、 |
| 当時健在だったチューナーボードを後付けしたパソコンと外付けしたパソコンと、 |
| VHSビデオのトリプルで予約録画、それぞれ永久保存。 |
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| 森昌子ベスト18「じゃがいもの会チャリティーアルバム」CD(ポニーキャニオン)を通販 |
| 購入。生CDへダビングし、パソコンで、車で聴いていました。 |
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2005年(平成17年) |
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医師から 「最悪、首から下が・・・」、2回目の入院先では 「一生治らん、安静も |
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手術も無駄」等と言われ、我が親からは「家の払い、生活費はどうするっ」等々と |
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言われ、同僚・後輩・会社、ご契約先への恩返し一心で仕事に邁進しながら内心 |
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自暴自棄になっていた中、自身も病気を持ちながら 「あきらめたらいけん!」 と |
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県内外の治療院を探してくれていた友人が、治療院 (瀬戸内市邑久) に連れて |
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行ってくれる道中、旭に光り輝く川沿いの道で 「きれ―ぇなな―ぁ、また写真撮り |
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たいじゃろう!」と言ってくれた言葉が、写真撮影再開の原動力をくれました。 |
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この友人も「マサコ」(正子)と言います。 |
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小中学校の同級生ですが、小さな噂は・・・ 立ちませんでした。。。全然!(>_<) |
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ネットアルバムの作成で、ノートへ記していた撮影データを追いながら当時の愛機へ |
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触れていたことも相乗して写欲が再燃! 同年12月24日に「頑張っている自分への |
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マイプレゼント!」と一眼デジタルカメラを購入。 |
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2006年(平成18年) 1月 2日 写真撮影再開。 |
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車の遠乗り、長乗りができなくなったのを逆手にとり、「身近」を新たなテーマに、 |
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身近な風景・花々を撮影。 |
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2006年(平成18年) 1月20日 HP[岡山の風] の開設に至りました。 |
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| その2ヵ月後の3月27日、昌子さん復帰!!! |
| 写真撮影の再開とHP[岡山の風] の開設に重ね合わせ、テレビ出演・新曲リリース |
| 等々、ただただ喜び、ご活躍を嬉しく拝見していました。 |
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| 復帰に至るまでのたいへんなご心労、体調不良、2007年(平成19年)の急性肺炎、 |
| 2010年(平成22年)の子宮全摘出手術を、情報番組・インターネットで知り、ご心労、 |
| 体調不良、大病を乗り越え、私たちの前に戻って来て頂いたことに感謝し、ご活躍 |
| を嬉しく拝見しています。 |
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2008年(平成20年) 8月 8日 |
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頚椎椎間板ヘルニア・頚椎性神経根症 再発。 |
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2回目の退院後に医師から言われた通り、首の椎間板がつぶれて、脊柱管の中で |
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脊髄を圧迫。 |
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2回目の退院後も「仕事を休め、入院を」と言われていた医師に「再々休めません」 |
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「再々入院できません」と相当反発していましたが、「先生の言われる通りにします」 |
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(><)と自宅療養。 |
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同年11月18日、1回目・2回目の入院先とは別の大学病院で 「下半身麻痺直前! |
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空いているところで(年明け)一番に手術しましょう」 と入院・手術の予約と説明を |
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受けましたが、治療に必要な期間休ませてくれた会社・同僚・後輩のお陰で、生き |
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地獄のようだった痛みが何事もなかったように治まり、手術日が決定した2日後に |
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手術を一時取り消し、経過観察後の2009年(平成21年) 7月 7日 最終的に手術 |
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取り止めになりました。 |
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| 2010年(平成22年) 8月 4日 ブログ 岡山の風(Ameba)を開設。 |
| HP[岡山の風] をリンク、ご紹介していましたが、Amebaは芸能人のブログが多いなぁ |
| と、昌子さんのオフィシャルブログを検索!発見!!! |
| さっそくオフィシャルブログを読者登録、公式グルっぽ(会員限定掲示版)へ参加させて |
| 頂きました。 |
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| 2011年(平成23年) 5月 4日 株式会社おんがく工房様よりご快諾を頂き、公式ホーム |
| ページ・ブログをHP[岡山の風] へリンクさせて頂き、勢いづいて「森昌子ファンページ」 |
| を制作、公開しました。 |
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| 現在は、おすすめ特選便で購入した「ベスト・コレクション」をパソコンで、車で聴いて |
| 青春を蘇らせながら元気を頂いています。 |
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今は昔の物語・・・ 「医者の言うことを真に受けるなっ」等々と厳しく叱咤・激励?? |
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した母親も、慢性腎炎・脊椎カリエス等で身体障害・要介護。 |
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本人には「(幼少より)人を箒で叩きまわしていた、人を蹴りまわしていたバチじゃ」 |
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と今は笑いながら言っていますが「先生がなぁ、・・・言ゅんよ〜」等とすっかり気弱 |
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になり、「先生の言うことはよ――ぉ聞いとかれ」「(病院食を)食べるのも治療じゃ、 |
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好き嫌いを言ぅちゃ――いけん!(言ったらだめ)」など、"入院経験の先輩"として |
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なだめ諭しています。 |
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他人の価値観を一切認めず、私が中学・高校の頃には金銭を実生活以外に使用 |
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することを万事「やっちもねえッ(くだらないッ)」と批判し、アルバイトを始めた高校 |
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以降は「"そんなこと"にかける金があるんなら食費を入れろ!」と折半させていた |
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両親ともども今はパソコンでCDをかけていると「昌子ちゃんか?」「昌子ちゃん?」 |
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「ええ歌じゃのぉ」「ええ歌じゃぁなぁ」とニコッ。 |
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お茶通森昌子のやぶきた茶飴を 「おいしい、おいしい」 と舐めています。 |
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